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コキュートス 小説

【コキュートス -月下のバレリーナー】第12話

 

「コキュートス。ギリシャ神話の冥府に流れる川。裏切者を許さぬ氷地獄のこと」

 

 泉は難産だった。
 昼間に産気づいた時、旬果は彼女の側にいた。
 泉の夫は仕事中のためすぐに駆け付けられず、救急車に同乗しそのまま病院まで付き添ったのである。
 病院に駆け付けた彼女の縁者とともに、ほぼ眠れずに過ごしたため、目の下にはくっくりと青いクマが浮かんだ。
 その明け方、ようやく産声が聞こえてきたのである。
 元気な女の子――泉は疲れ切った様子だったが、その後の経過は良い。
 落ち着きを取り戻したころ、旬果はようやく地元を歩き始めた。
 向かったのは子供のころに通ったバレエ教室である。
「先生」
「旬果ちゃん! 久しぶりね~」
 相変わらずおっとりとした先生だ。明るい髪色に優雅な仕草。
 おとぎ話の妖精のような彼女は、バレエをする人特有の優美さを備えている。
「元気そうで安心した~」
「先生も。あ、イタリアのお土産です」
「あら、嬉しい。何か良い事があったの?」
 良い笑顔だわ、と旬果の頬をつつく。彼女にとっては旬果はいまだ小学生に見えているのかもしれない。
「友達が無事出産を」
「ほんと~。良かったわ」
 しばらく話をして、帰り際だ。
 旬果は彼女に言った。
「あの……バレエを再開しようと思っているんです」
「ほんと!素敵!あなたは頑張り屋さんで、表現力も高かった。嬉しいわ、あなたがバレエをもう一度踊るのは」
「ええ、でも、趣味みたいなものになるかもしれませんけど」
「良いのよ、良いのよ。趣味でもなんでも、本人と観客が楽しめれば充分。あ、そうだ。せっかくだから、ソワレ……あなたが言うならセーラかな?それに参加しない?」
 セーラ――夜の興行だ。
「10月に開催されるの。セーラといっても、無料開放だけどね。今から練習すれば……3か月とちょっと。きっと間に合うわ」
「どこでやるんですか?」
「東京よ。お招きされてて、皆も楽しみにしてる」
 旬果は一瞬迷ったが、「出たい」というのが素直な気持ちだった。
 見せつけるために踊るのではなく、観客に楽しんでもらうためのバレエ。
 初心に帰った気持ちだ。
「……出ます。先生、ありがとうございます」
「嬉しい~!演目は自由で大丈夫よ、でも映像で送ってね。確認はしたいから。何を踊りたい?」
 旬果は顎に指先をあて、考える。
 そして言った。
「ベアトリーチェを」

 東京へ戻り、展覧会の最後を見届けるところから仕事は再開だ。
 綾香は旬果に何か話そうとしたが、タイミングが合わず現場が離れてしまった。
 大阪へ向かう彼女からパソコンにメッセージが届いた。
『あなたがオークションで競り落としたベアトリーチェ、どれだったかわかる?』
 識別番号とタイトルは付け替えたので、どこかで分からなくなったようだ。似た作品も多いため、混ざってしまうのはよくわかる。旬果は目録から画像を写し、プロポーズの際に使ったあの絵です、と送ったが、それでは不確かだろうか。
 綾香からは『ということは名古屋よね。分かったわ。ありがとう。しばらく貸す必要があるから、もし買いたいって人がいても売らないように』と返信が来た。

 どうしたのだろうか、と不思議に思ったが、とにかく指示は指示だ。
 最後の日にはバイヤーも訪れ、売買契約も盛んになる。
 東京では大口客が多く集まるため、旬果は気合を入れていた。
 何人かと契約がかわされ、展覧会を開いた顧客も満足そうである。
 パラディ―ソだけは売らないように、と旬果が釘を刺したため、申し出を断る状態だった。
 あれはいつかしかるべき場所へ譲らなければならない。カネで売買するようなものではない。
 客の中に、これはと思うような美女がいた。
 額と肩甲骨のあたりでぱっつり切れ目をそろえた黒髪。涼し気な目はエメラルドのような緑色。
 化粧は独特でアーティスティックだが、黒のスーツとスリットの深いタイトスカートとの調和が見事だ。
 胸元は大きく開いていて、下には何も着ていない……ような大胆なファッション。
 そしてその胸元へ視線を誘導するかのような、長いネックレス。
 足元は細い細いピンヒール、シルバーのアンクレットが控えめに輝く。
 綾香も「歩く芸術品」と言われるが、彼女もそれに劣らない仕上がりだ。
 モデルと言われれば納得できるほどの容姿とスタイル。
 クロコダイルのクラッチバッグを手に、彼女はまっすぐに旬果の元へ歩いてきた。
 その歩き方も迫力があり、目が離せない。ダリアのような怪しい美しさと華やかさ。そして官能的な艶やかさだ。
 彼女が歩けばふわっと香水が甘く香る。夜を思わせる、バラとジャスミン、ムスク……それからスパイスの混じったような香り。
「ボンジョルノ」
 蠱惑的な響きを持つ声。同性ながらどきりとする。
「……ボンジョルノ」
 イタリアからのお客様のようだ。旬果はそのままイタリア語で応じる。
「こうしてみると美しいお嬢さんね」
「ありがとうございます。もうお嬢さんという年齢でもないのですが……」
「人の美しさは年齢によらないのよ。むしろ、年を重ねたからこそにじみ出るものってあるわよね」
「……そうですね。そう思います」
「少し話がしたいわ。買いたい作品もあるし」
「ではご案内を」
 リヴィア、と名乗る美貌の女性は展示品を一つ一つ確認していた。
 特にベアトリーチェの絵が気に入ったようだ、何作品かあるものを見ては説明を求める。
 旬果はそれに応じていた。
 彼女の足が止まったその先は、旬果の思い入れも深いあのベアトリーチェ。
「……これは素晴らしいわ。本物の金箔よね」
「そうです。偽物や塗料としての金色ではなく、本物を」
「今まで見たことがないわ。どこに隠されていたのかしら」
「60年ほど前に個人の蔵に保管されていたのを遺品整理士が見つけたようです。発表されていませんでしたし、画家の名前も不明のままで……」
「かなりの珍品なのね」
 リヴィアはそれをじーっと見つめた。美術品を見る目というより、カエルを前に舌を出す蛇のよう。
「これはコピー?」
「はい。本物ではありません」
「本物はもっと迫力があるのでしょうね」
「そうですね……金箔の立体感が違います。陰影によって表情が変わります。コピーでも再現できるよう努めましたが……」
「素晴らしいわ。私の事務所に置きたい。おいくら? 正直、値段は気にしないのよ。いくらでも出すわ」
 旬果は綾香の言葉を思い出す前に、ノーと言いたかった。
 彼女はこの作品を、まるで獲物のように見たのである。直感がどこまで正しいかは分からないが、嫌だった。
 幸い綾香も「売らないで」と言っている。
「……申し訳ありませんが、先客がおります」
 リヴィアの目がこちらを向いた。
 やはり蛇のようだ。美しいのに、どこかおかしい。
「そう」
 リヴィアの冷たい声が響き渡った。

 

 ネイサンはロッカ・ディ・ルチェの大広間にいた。
 大理石のテーブル、その上にはあのノートパソコンがある。
「警察連中がパスワードのありかに気づいたらしい……」
 アウグストの声は冷え切っていた。
「何だと?」
 ネイサンはつとめて冷静に返した。この場には数名の幹部――アウグストが特に気にっている者、彼の側近、ボディガードがいる程度。大広間には少なすぎる人数で、それが却って部屋の寒々しさを物語る。
 ヴィットリオも何も言わずに彼の後ろに控えていた。
「ギャラリーを見張っていた連中が気づいた。警察が絵画を売った先を教えるよう言っていた、と」
「早く手を打ちませんと」
 幹部が口を開いた。アウグストの厳しい目が彼を向き、幹部は押し黙った。
「その通りだ。だが、俺たちは出国出来ない」
 ネイサンが言うと、アウグストは頷く。
「ああ。見張られてるからな」
「動かせる者を動かしましょう」
「この際ブラックリストに載っていない下っ端でも……」
「日本のヤクザに連絡をすれば……」
「それは良いな、ヤクザに連絡し、パスワードを取得してもらう?連中に弱みを握られるも同然だ」
 アウグストは鼻を鳴らした。
「リヴィアはどうだ?」
 ネイサンが名前を出すと、アウグストは体ごと向き直す。興味がわいたようだ。
「リヴィアなら動ける。日本へ行けるだろう。彼女にカジノ・バーの権利の一部を渡し、彼女の店の拡大を許可すれば……長期的に見れば彼女も、アウグスト、お前も、俺たちも儲けられる」
「……そうだな。いい案だ」
 アウグストは大理石の上に一台のスマホを置く。旬果のものだ。
「ネイサン、その案に免じて嘘を許してやる。ずいぶん甘い時間を過ごしたようだが、休暇の前借ということにしておくよ」
 アウグストはスマホを指さし、旬果とネイサンとのメッセージの一部を表示した。
 ネイサンの心臓が一瞬凍りついたが、顔には出さずに頷いた。

 

 アウグストは一人になると、脚を組み換えノートパソコンを見た。
 ネイサンは顔色を変えずにロッカ・ディ・ルチェを出て行った。
 シュンカ・アオノのことはもう吹っ切ったのか?
 奴はなかなかのポーカーフェイスだ。多少の揺さぶりには動じない。
 リヴィアはとっくに動いている。空港で彼女を見たという報告が入っていたのだ。いつからかは知らないが、おそらくすでにターゲットに接触しただろう。
「二重スパイといったところか?」
 柱の陰に潜んでいた人物に声をかけた。
「君の主は誰だ?君に利益をもたらし、生き抜く力を与えたのは?よく考えるように」
 アウグストの言葉を聞き終えると、影は消え去った。
「チッ、どいつもこいつも……」
 アウグストはパソコンをちらりと見た。
 ――いっそ壊せば、証拠は全て消え去る。
 だがビジネスの信頼も消え去るだろう。そうなれば立て直しには長い時間と労力がかかる。
 アウグストは固定電話に手をかけた。
「シュンカ・アオノの生死は問わない。カネならいくらでも出そう、とにかくリヴィアより先に絵画を奪え」
 指示を出し、立ち上がる。額に滲んだ汗ごと髪をかきあげ、ネクタイを緩め、息を吐きだした。
 この時アウグストは焦っていた。
 一つのミスを犯したのだ。
 小さな、誰でもしてしまうミスだろう。
 ノートパソコンをしまう、その棚の鍵をかけ忘れたのだ。

 

 ネイサンはクラネ・ジェーロ傘下の喫茶店に入り、レオナルドに連絡を入れた。
 彼は変装し、喫茶店に入ると彼の2つ隣の席に座る。
 ネイサンはメモに手書きし。彼に見せた。
『リヴィアは出国したんだよな』
 レオナルドもメモを書いて返事を見せる。
『その通り。だがお前の情報のお陰で、マークは出来てる』
『マークじゃ足りなくなりそうだ。絵画どころか、シュンカ・アオノの命が危ない』
『何があった?』
『パスワードがどこにあるか、イタリア警察が気づいたとアウグストが掴んだ。追いつめられた人間が何をするか、分かったもんじゃない。なぜ警察はわかりやすい行動を?』
『悪い。俺は黙ってたんだ。言い訳になるが、功を焦った奴がいる。売春も見過ごせない』
 ネイサンは大きく息を吐きだした。額を押さえる。
『ヴィットリオの家族の保護は済んだ。ここはバレてないから、安心してくれ』
『パソコン奪取を急ぐ必要がある。それから、アラタ・シンドーという男に連絡を取れ。シュンカ・アオノと絵画をいち早くリヴィアと……おそらく暗殺者が送られる。必ず守れ、と』
『暗殺者?』
『アウグストが誰かを信用すると思うか? リヴィアですら駆け引き相手だ。彼女より先んじようとするさ。だったら取る手段は限られてくる』
『……なるほど。分かったよ』
 ネイサンは立ち上がり、店を出た。
 レオナルドや進藤を信じるほかない。自分は日本へはまだ、帰れないのだ。
 今となってはアウグストの考えが手に取るように分かるようになってきた。
 元々似ていたのかもしれない、自分と彼は。
 彼にどこか哀れみに似た同情心があるのだ。
 そんな自分に嫌気がさす。
 ――自分の起源を知れ。答えは常に自分の中にある。
 ふと脳裏に懐かしい人の声と言葉がよみがえった。
「人はけだものになるために生まれて来たのではない……良心を信じろ……」
 ”彼”の言葉を思い出すと、脳裏に過去が蘇る。
 ――あらゆる困難は忍耐によって克服できる。時間は飛び去って行くが、時間の記憶から私やお前が消えることはない。
 血に濡れた震える手が、ネイサンの手を掴んだ。
「良いか、私にとって大切なのは、この体と命を使って守るべき者を守ることだ。だから、お前は気にするな。もっと先へ行きなさい。答えは常にお前の中にある。だから決して無くなることも、奪われることもない。それさえあれば、どんな道でも迷うことはない」
 あれはネイサンを狙っての凶行だった。だが彼が運悪くそこにいたのだ。
「運が良かったよ。老いぼれより、若いお前が生き残った方が良い。だろう?私は愛を知った。でも、お前はまだだからな。これで良かったんだ」
 なぜ彼がこんな目に?ネイサンはその時ケガをして、病院で治療中だったからだ。彼が代役を務めた。その結果彼が命を落とした。
 連絡を受けて向かった先には、腹部をナイフで刺された彼の姿があったのだ。
 彼を抱き起し、血に濡れた手がネイサンの手を掴んで離さず、彼は言い残して息を引き取った。
 それが突然に思い出される。
 消えない後悔。
 罪悪感。
 彼はこれで良かったというが、ネイサンはそう思えない。
 振り返れば夕陽が海に沈んでいくところだ。
 まぶしさの中に、夕陽が持つ温かさがある。
「……俺はアウグストとは違う……」
 そのつぶやきは夕陽が作る影に落ちて消えた。

 

 展覧会が終わり、作品を所持者と顧客、新たな購入者へ、と分別作業に入っていた。
 綾香はこのところずっと忙しそうだ。大口顧客から新しい展覧会のディレクション依頼が来ているためだ。
 にしては、かなり眠そうだ。
「あの……お疲れみたいですけど。休憩を入れては?」
「ああー……うん、いや、大丈夫。もう少しで落ち着くはずよ」
「ところでベアトリーチェの絵はもう貸したんですか?」
「まだ……全く、展示作品が多いのも考え物よね……」
「えっと……」
「似てるものが多くて、確認が間に合わないのよ。しかも向こうも色々忙しいみたいで、時間が限られててさ……でも、多分もうすぐ……」
 ふわあ~、と綾香はあくびをした。旬果はそれが移りそうになったが、口を閉ざして耐える。
「少し休んでいて下さい。このところ働きすぎだったんですよ」
「そうかな……でも、ちょっとだけお言葉に甘えるわね……」
 そういって事務所のソファに綾香は横になった。
 ベアトリーチェの絵は確かに多いが、旬果はすぐにわかる。
 名古屋から送られてきた荷物を開き、中を確認すれば良いのだ。
 頑丈に丁寧に梱包されているため、開くのも一苦労だが、絵画のサイズを旬果は把握している。
 これだ、と思うものを取りだし、一つ一つ開いていった。
 9枚目、ようやく金箔をまとった彼女の目が現れる。
(久しぶり、ベアトリーチェ……)
 光をたたえる目は優しく強い。
 まるで火花だ。
 裏返し、あの変わった号を確認する。
 やはりボールペンで書かれたように見える、意味不明な文字の羅列。
 こればかりは不思議だ……。

 その夜、仕事を終えた旬果は一人歩いていた。
 スーパーに寄って食材を買うか、総菜屋に行ってお弁当を買うか……そんなことを考えていると、背中に冷たいものが押し当てられた。
「!」
 腰が体温を失ったようになり、体が震える。逃げなければ、と思うが、逃げれば何をされるか分からない、と混乱し足は止まった。
 だがはっきりと覚えている、その香り。甘い花々と、スパイスの官能的な香り。
「……ハーイ、お嬢さん。覚えてる?」
 イタリア語、蠱惑的な声の響き、もちろん、忘れるはずがない。
「……リヴィア様」
「そうよ。私ね、あの絵がどうしても欲しいの。なぜかわかる?」
「……気に入ったから?」
「フフ。確かにそうね。わかりやすい動機だわ。でも違うの、絵なんかどうでも良いのよ」
 冷たいものが、腰から背筋へ移動していく。
 とがった先端をスーツ越しに感じる。これは包丁?ナイフ?血の気が引き、息の仕方を忘れて心臓が痛む。
「あの絵にはね、ある男の全てが封じられてるの。私、彼をどうしても御したいのよ。おもちゃにしたいの」
 すすす、と冷たいものがさらに移動し、旬果のうなじをくすぐった。
「いう事を聞いてくれれば命は取らないわ。彼は容赦しないでしょうけど、私はまだ女の子には良心的なの。私に預けた方が身のためよ。ああそうそう、こうなったらあなたも私のものにしないとね。警察に駆け込まれたら厄介だわ……。でも、丁度いいわ。日本人って肌がきれいで若く見えるから、好む客も多いの。日本人女性って本当世界で人気よね?隣国ですらも女性は好むらしいじゃない」
 リヴィアの腕が伸び、旬果の内ももに触れた。
「処女じゃないのが残念。でも大丈夫、プロポーションも良いしね。すぐ稼げるようにしつけてあげるわ。今じゃ考えられないくらい、リッチな生活が出来るわよ。それになかなかきれいな顔だし、教養もあって、語学力もある。その経歴なら誰かの愛人におさまって安泰に暮らすことだってできるかもしれないわ」
 下着に指先が触れる。リヴィアは続けた。
「ネイサンとか言う、あの生意気な男なんてすぐに忘れられるわよ」
「!」
「もっと気持ちいい事を教えてあげるわ。良い?男を支配できる、唯一で最高のお仕事よ。さあ、絵を渡しなさい。それだけで命と裕福な暮らしを手に入れられるのよ。それに、それでも忘れられないならネイサンもいずれ客として紹介してあげるわ。その時にはあなた、男一人篭絡出来るようになってるわよ、彼はあなたのものになるわ。悪い話じゃないでしょ?あなたは、命も、お金も、男も、ぜーんぶ手に入れるのよ。たった一枚の絵画と引換に!」
 そのまま倒れ込んでしまいたかったが、それすらも出来ない。がくがく震える足は、自分のものじゃないみたいだ。
 しかし声を絞り出した。
「……嫌です」
「なんですって?」
 なぜ彼女はネイサンを知っている?だが、それよりも、彼とのことを侮辱されたことが腹立たしかった。
「嫌です」
 さっきよりははっきりと声が出た。
 リヴィアは耳を噛む勢いで言った。
「命が惜しくないの?バカな子ね」
 旬果はそれ以上何も言えず、ただ首を横にふる。涙がせぐりあがってきた。
「いや……」
「だったら……」
 パアン、と何かが弾けるような音がし、リヴィアが呻いた。ナイフがどこかへ飛んでいく。
 解放された旬果はその場に尻もちをつく。ヒールが脱げ、体はもう立ち上がれないほど弱弱しい。
「チッ、アウグストに気づかれた……」
「そのまま動くなよ、リヴィア。それから”ウサギ”」
 リヴィアに向けられていた何かが旬果を狙う。
 前からスーツ姿の男が出てきた。
「リヴィアが言った通り、アウグストは容赦しない。命が惜しいならとっとと絵を渡せよ。その後は、リヴィアに世話になった方が良いかもしれないが」
「ちょっと……邪魔しないでよ」
「黙ってろ、リヴィア。同性の慰め合いなんか下らねえ。生きるか死ぬかだ。簡単だろ?だが、絵を渡すことが最低条件だ」
 一体これは何?と旬果が疑問すら口に出来なくなったその時、ガサガサっと音がなり、民家の植え込みから人影が飛び出した。
「青野さんを保護します!」
 と言いながら、彼は何かを上に放り投げる――全員の目が上を向いた瞬間、彼はスーツ姿の男めがけて突進する。
「高梨さん!」
「分かった」
 ホイッスルが鳴り、どこからか警察官が飛び出し”さすまた”がスーツ姿の男を取り押さえる……
「こいつ、ボウガン持ってやがった!」
 さきほど飛び出した男がボウガンを取り上げた。
 旬果はいよいよ溢れた涙越しに見ている中、リヴィアはどこかへ去ってしまい、それを追う警察官、そして目の前に差し出された手が次から次と目まぐるしく展開される。
「来るのが遅くなって申し訳ありません」
 そう落ちて来た男性の声は、不思議なほど柔和だった。

 警察署内の一室……つまり一番いい部屋なのだろう応接室に案内された。
 肉厚な革張りのソファ、小さいが重厚なデスク。
 頑丈そうなコンクリートの壁には日の丸が掲げられていた。
 差し出されたコーヒー。旬果は香りを味わう余裕などなく、ただ何度も何度も意味なくスプーンでそれをかき混ぜている。
「青野旬果さんを保護しました。……はい、時間がかかって……いやだって、仕方ないでしょ。今言わないでくださいよ!」
 と、語尾を荒げたのは最初に飛び出した男だ。
 花柄のシャツにジーンズ。警察官にはおよそ見えないが、巡査長。名前は進藤 新という。
「ったく……なんだよ、無能なくせに。すいませんね、青野さん。本当はもっと早く駆け付けたかったんですけど」
「え……えっと……」
「まずあなたを襲ったのはリヴィア。本名はカテリーナですね。元モデルの売春婦で、今やクラネ・ジェーロの幹部です」
「クラネ・ジェーロ……」
 その名でようやく話が見えてきた。滞在していたあの街。それを牛耳るマフィア。
「それからボウガンを持ってた男は、クラネ・ジェーロに依頼を受けた暗殺者ってとこですね。イタリア人じゃないけど外国人です。ギリギリ日本に残ってた奴でした」
「……あの、な、なぜ私……」
「オークションで競り落とした絵がありましたよね?その中の一つにヤバイものがあったんです」
「やばい?」
「はい。クラネ・ジェーロの情報ほとんどが詰まったノートパソコンがあるんですが、それを開くために必要なパスワードが隠されたんです。それであなたが狙われた」
「……そんな……」
 旬果は言葉を失い、同時に納得した。吐き気がするがそれを押さえようと口元に手をやる。
 こんなに震えるのか、というほど、指は震えていた。
「その……こんな時になんですけどね。絵を早い事確認したいんです。ベアトリーチェで、なんか心当たり……」
「14桁の?」
「ご存じですか!」
 進藤の顔と声が一気に明るくなった。そういえば、彼の顔を見たことがある気がする。
 どこで?
「……はい。変な号だなって思って……油絵なのにボールペンだったし……」
「すげえ。今すぐ絵を保護することは出来ますか?」
「大原さんに言えば……絵は私が分かります」
「よし、よし。これで一気に解決に進める。やったー、安東先輩もこれでやっと帰還出来るよ」
 進藤は一人盛り上がったが、旬果は今だに腑に落ちていない。
 はしゃぐように報告書を書く進藤を見ながら、旬果は取り残された気分になった。
 さっきまで命の危険があって助かったというのに、簡単に喜べない。
 戸惑っているとドアが開き、先ほど手を差し伸べた男性が入ってきた。
「進藤くん、ちょっと一人で浮かれ過ぎだよ。青野さん、怖い思いをさせて本当にすみません。もっと早くに保護に向かいたかったのですが、なかなか出来ず……落ち着かれましたか?」
「少しだけ……」
「良かった。私は高梨栄太郎」
 柔和な笑みと声音。高梨のその姿は旬果に安心感をもたらした。
「話は進藤くんから……」
「は、はい……。あの、つまり、私が買った絵が……」
「そう。いわくつきだった、だから狙われたんです」
「どうして知ってるんですか?」
「情報提供者がいるからですよ」
 高梨は平然と言ってのけた。
「彼は邦人による武器密輸の事件捜査のため、イタリアへ飛んだんです。そしてクラネ・ジェーロに潜入し、首領であるアウグストの信頼を得るが、捜査は進まなくて、そのまま3年が過ぎた。そして彼の前にあなたが現れた」

 3年……。思い当たる数字だ。旬果は顔をあげる。

 ――どうしてイタリアに?
 ――仕事だよ。英語が話せるから、という理由で、海外赴任が多かった。
 ――違うところへも行ってたの?
 ――それほど多くない。アメリカやイギリスは……短期だが何度か行ったけど。イタリアへはもう3年になる。
 ――3年も?ご家族は心配するでしょう?
 ――さあ。元々離れて長いから。

 まさか……そう思い高梨を見ると、彼は一枚の顔写真を旬果に見せた。
 眼光するどく、男性的に整った顔立ち、やや小麦色の肌。茶褐色の髪。
 孤高の狼を感じさせたが、制服姿も似合っている。
 そのアンバランスさが絶妙な魅力を放っていた。
 どことなくエキゾチックな顔立ちで、アジア系が感じられる欧米人……。
 そして何度となく旬果を見つめた、あのアンバーアイ。
 今より若く、警察官の制服を着た凛々しい顔の彼が写っているのに、みるみる視界は涙でゆがみ、見えなくなった。
「その情報提供者こそ、ネイサン・ブラックモア。本名は安東 寧人。うちの巡査部長です」
「安東……寧人。ねいと……」
 旬果は彼の名を口にする。唇が震えた。
 彼の本名を、旬果は知っている。
 彼が伝えた真実。本当の彼。
 胸いっぱいに温かいものが広がり、頬を涙が伝う。
 全身が喜びに打ち震えた。

 ――ネイトだ。ネイト、と呼んでくれ。
 ――ネイト……。
 ――ああ。……ありがとう。

 ネイサンは目元を柔らかくし、旬果を見つめながら頬を緩ませる。
 あの時、ようやく彼自身の笑顔を見た気がした。
 あれこそが、彼自身の真実の笑顔だったのだ。

次の話へ→【コキュートス -月下のバレリーナー】第13話

 

 

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