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コキュートス 小説

【コキュートス -月下のバレリーナー】第10話

2024-07-27

 

「コキュートス。ギリシャ神話の冥府に流れる川。裏切者を許さぬ氷地獄のこと」

 

 旬果はパソコンを開き、検索をかけていた。
 ネイサン・ブラックモアの名前を。
 それと、彼の顧客である企業も。
 だが一切ヒットしない。
「どういうことなの?」
 世界的五つ星ホテルでパーティーを開くほどの企業だ。確かにそれ自体は出てくるが、調べても調べてもネイサンの名前は見つからない。
「はあ……」
 どれだけ大きなため息をついたかわからない。
 紛失したスマホはやはり見つからないとのことだった。
 失くしたと気づく前に不審に思ったことと言えば、空港で女性とすれ違いざま軽く体が触れた気がするが、そんなことは別におかしくもないだろう。
「どこで失くしたの……」
 旬果は顔を覆った。みぞおちがイライラしてくる。
 このままネイサンを諦める?
 いや、出来ない。
 縁があればまた会える?
 でもそんな不確かなものにすがって納得できるようなものでもない。
(やるだけのことはやりたい……人事を尽くして天命を待てっていうし……)
 お金をためて、自力でイタリアへ。
 悪くない、これならいつかは叶えられるだろう。
「……」
 たった一つの小さなミスが、こんなことになるなんて。
「ネイト……」
 未練がましく引き出しから引っ張り出し、揺れるネックレスを見つめる。
 このままだと心臓がおかしくなりそうだ。
 やはり引き出しに戻す。
 結局よく眠れないままに出勤した。

 ダンテ神曲展は大阪、名古屋、東京の美術館で同時開催されることになっており、それぞれ展示品はコピーも用意され、どこに行っても同じように楽しめる。
 大掛かりな展覧会だ。
 旬果は綾香とともに名古屋を監督することになっている。
 東京から向かったそこは、美術館としては古く、小さい。
 林道を抜けたところにあり、外観は洋食屋のようなレンガ調、アンティークな色合いになった金のフレームで縁どられた木製のドア。
 広さは喫茶店ほどだが、2階建てになっており、2階ではモダンバレエの作品をじっくり座って見られるようスクリーンを設置した。
 まるで宝箱のような美術館だ。
 綾香の指示のもと、作品の展示順、照明、と事細かにセッティングされていく。
 パンフレットの表紙と広告にはあの「パラディ―ソ」。
 顧客も綾香も気に入ったらしく、大きくコピーしたものを3か所全ての入り口に展示することにしたようだ。
 準備も整った、6月の下旬。ダンテ神曲展が開催されるその日がやってきた。

 客入りは上々。
 全会場で展示されている作品、関連する作品を載せたアートブックやアクリルスタンド、キーホルダーや小物入れなどのお土産も好調な売れ行きである。土産物では黄金のベアトリーチェのマグネットが人気だった。
 ダンテ神曲展が開かれて3日目の夜、時間ギリギリに駆け込んできた男性がいた。
 チケット売り場の前で何やら話し込んでおり、たまたま居合わせた綾香が声をかける。
「どうなさったの?」
「あ、あの……僕デートでここに来た者なんですけど」
 男性はよほど焦っているのか、額に汗をかいている。一度つばを飲み込んで、再び話し始めた。
「そのっ……ここでぜひ、彼女にプロポーズを、と思って……」
「ええ?」
 綾香と旬果は顔を見合わせた。
 とにかく、と近くの喫茶店に入った。
 どうやら彼は長く付き合っている彼女にプロポーズをしたいが、そのための舞台に悩んでいたそうだ。
 そんな時ダンテ神曲展を知り、美術とバレエ好きな彼女のために訪れたのだという。
「そこで……僕ダンテって知らなかったんですけど、彼がベアトリーチェによって救われるって知って、すごく感動して」
 地獄を抜け、罪を贖うための煉獄へ。ダンテは恐ろしい旅をし、そこを抜け、ようやく天国へ至る。
 その後、ダンテを案内するのがベアトリーチェだ。
 彼女は若くして死んだ実在の女性で、ダンテにとっては初恋の相手であり、永遠の理想の人。その彼女を物語のヒロインとし、天国の案内人としたのである。
 ダンテが描いた、究極のラブレターと言っても良い作品だ。
「仕事が上手く行かなかった時、体もぼろぼろになりそうで、ほんと辛かったんです。でも、彼女に支えられたんです。ちょっとずつでいいから一緒にやっていこうって言われて、それでなんとかやってるうちに軌道に乗り始めて……彼女がいなかったら僕、もっとダメになってたかもしれなくて……」
「それで彼女をベアトリーチェと重ねたのね?」
 綾香は身を乗り出した。
「はい。あの金で描かれたベアトリーチェは……僕にとっての彼女そのもの。彼女は僕の太陽なんです」
「嬉しいわ。ねえ、青野さん」
「ええ。でも……プロポーズって?」
「あの絵の前で、どうしても、彼女にプロポーズがしたいんです。彼女もあの絵をすごく気に入ってて……ミュージアムショップでこれも買ったんです」
 ポストカードだ。
「その、閉館前のちょっとだけで良いんです。迷惑にならない程度に……」
 綾香と旬果は、再び顔を見合わせた。

「どうせなら思いっきりやるわ」
 綾香は腕まくりし、髪を後ろで縛る。
「まずこうよ、美術館に彼女を誘う。特別なプログラムをやるからって誘うのよ。実は美術館は抽選で当たった人に特別な招待状を送っていて、その招待状を彼が当てたことにするわ。それで一人までは同伴OKだから、一緒にって。そしてやってきた二人を2階へ案内する。彼女はバレエ好きなわけだから、モダンバレエを流すわ。それを見ながらディナーよ。赤いバラを食卓に飾るの。そして金のベアトリーチェを飾った壁にスポットライトを当てる。視線がそっちへ向くわね。そしたら君、プロポーズしなさい」
 男性の目が輝いた。
「そしてOKがもらえたら、スクリーンいっぱいにバレエの最後のシーンを流すわ。祝福の鐘が鳴り、ダンテとベアトリーチェは結ばれて天国へ行くの。あなたたちは地上の楽園へ。……どう?」
「す、すごいです!」
 男性は拍手した。綾香はうんうん頷いて、腰に手を当てて見せる。
「本当に良いんですか?!」
「もちろんよ。君の情熱を感じたわ。さあ、青野さん。あなたも手伝って」
「え、あ……はい!」
 突然名指しされ、旬果は驚いたものの返事した。
 いわゆるサプライズなのだろうか。いや、予告ありのプロポーズなど聞いたことがないから、こういうものなのかもしれない。旬果は一人納得し、近くの花屋へ急いだ。
 決行は翌日だ。
 赤いバラ、そのブーケ。そこに指輪を忍ばせるのだ。
 また小さい二人用のテーブルと、椅子。これも美術館に合うものを探さねば。
 旬果は一時、ネイサンのことを思い出さないでいられる不意のイベントに、わくわくしていた。

 

 近くの洋食屋からシェフとテーブル一式を借り、花も用意した。
 シルクのテーブルクロス、その上に金のテーブルランナー。
 間接照明が運び込まれ、バレエが流れる中でのディナー。
 急ごしらえだが、さすが綾香だ。これほどロマンティックな空間を作り出すとは。
 空のグラスに旬果はシャンパンを注いだ。
 恋人同士の幸せそうな笑顔がそこに存在している。
 胸がくすぐったくなった。
「こんなこと初めてです」
 シェフが綾香にこそこそ話しかけた。
「あたしも初めてよ」
「よくすぐに決断しましたね」
「楽しそうだったし、アートが人生に役立つなら素晴らしいことじゃない。普段アートって生活での優先順位度は低く見られがちなんだし」
「寂しいですね」
「そうよ、心を慰めてくれるのにね。だから若い二人が感動してくれたなら、とても嬉しいわ」
 二人の会話が耳に入ってくるが、旬果は目の前の二人を見つめていた。
 それと、ロレンツォ演じるダンテ。
 そう、ネイサンと出会った時に見た、あのバレエだ。
 旬果は当時、睨むようにステージを見ていた。足の痛みもあったが、それ以上に「羨ましかった」のだ。
 まっすぐに情熱を表現できるロレンツォが。
 まぶしいくらいに、羨ましかった。
 今はどうだろう?
 その時よりもずっと落ち着いて、より深く彼のバレエを味わえる。
 その時よりも……いいや、事故に遭う前よりも。
 彼の情熱が伝わってくる。
 やがて男性が指輪を取り出した。
 バレエは音を落とし、シーンが停止され、ライトがベアトリーチェを照らす。
「君が僕を導いてくれた。これからは、僕が君を守り、導くよ。一緒に幸せになろう」
 そして告げられる、「結婚して下さい」
 彼女は泣いて喜び、指輪がつけられた――綾香の指示通り、ベアトリーチェがダンテの手を取り、二人は天国へ。
 愛を表現するベアトリーチェ。ダンテに差し出された手は小さく、細く、優しく、愛に溢れている。
 抱き合う二人。
 鐘が鳴った。

 プロポーズ作戦が終わり、旬果は一人その場に残った。
 ベアトリーチェは優しく微笑みを浮かべ、見る人の目をまっすぐに受け止めている。
「……」
 旬果はふと手を広げた。中指を下げ、親指を手首からしまう。
 腕を広げ、胸を開く――体は動く。そのまま樹を抱くように腕を曲げ、停止。
 つま先を外へ向け、脚をゆっくり屈伸し、つま先で立ち、腕を徐々に高く持ち上げる――
 細胞の一つ一つがぱちぱちと音を立てるように目覚め、全身に情熱が流れ込むようだった。
 頭のてっぺんから、つま先、指の先。全てが打ち震える。
 旬果はその場に膝をついた。
 体は覚えている!
(私……踊れる)
 そう実感すると、とたん自分の体が愛おしくなった。
 震える体を抱いて、声にならないまま涙を流す。

――君はまだ、何かを隠し持っているんだ。小さな火種のようなものを。
――火種?
――そう。それはいつ燃え上がるのかと待っている。なのにそのきっかけを見つけることが出来ない。俺はまだ君を見つけていないよ。

 朝日の中で、ネイサンの声がリフレインする。
 勝手に再生されるあの会話。
(ネイト、私は見つけた)
 夢の中で彼にそう答える。
 するべきことを見つけたから……。
 目を覚ますと、旬果は首元に触れた。
 クチナシをモチーフにした、ダイヤのネックレス。
 迷う理由はない。
 彼を探すなら、必ず道は見つかるだろう。

次の話へ→【コキュートス -月下のバレリーナー】第11話

 

 

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  • この記事を書いた人

深月カメリア

ライター:深月カメリア 女性特有の病気をきっかけに、性を大切にすることに目覚めたXジェンダー。以来、性に関して大切な精神的、肉体的なアプローチを食事、運動、メンタルケアを通じて発信しています。 Writer:Camellia Mizuki I am an X-gender woman who was awakened to the importance of sexuality by a woman's specific illness. Since then, I've been sharing an essential mind-body approach to sexuality through diet, exercise, and mental health care.”

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