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コキュートス 小説

【コキュートス -月下のバレリーナー】最終話

2024-09-28

 

「コキュートス。ギリシャ神話の冥府に流れる川。裏切者を許さぬ氷地獄のこと」

 

 薄いシフォンを重ねたロングスカートという衣装に着替えた旬果は、外に出た。
 夜の気配が強くなる中、洋館風の建物の前では若い人たちが急かされるように帰っていき、代わりに会社帰り風の男女、大人の恋人たちが流れてくる。
 旬果は涙がこみ上げてくるのを感じたが、そのまま歩いた。
 ベアトリーチェを踊るプリマドンナが一人。
 それを家族連れの父親が写真に撮り、やはり急かされて去っていく。
 そのまま進藤を探していると、背中が見えた。
 進藤が振り返り、眉を寄せる。
「顔、真っ青ですよ」
「彼が現れたの」
「え?……アウグストが?」
 旬果が頷くと、進藤は声を落として近づいた。旬果はそれを止める。
「だめ。これが爆弾なんですって」
 チョーカーを指させば、進藤が顔色を失った。
「一体、なぜ?どうやって?」
「バレエ団員になりすましてたの。オレンジ色の髪で……」
「団員の名前は?」
「アントニオよ。今日は彼自身を見てなかったわ」
「そんな近くに……そうだ、爆弾を外しましょう。小さくて移動可能なら凍結も簡単です」
「だめ!外せば爆発し、刃物が飛び出るって……それに、彼はセーラをやめれば今すぐここを吹き飛ばす、と」
「……」
 進藤は口元を手で覆い、息をすると無線を取り出した。
「……爆発物を一つ発見しました。……ええ、はい。今は手出しできません。……それと、バレエ団員のアントニオという男性が行方不明です」
 無線が切られ、進藤は今にも泣きそうに顔をゆがめた。
「マジで申し訳ありません。必ず奴を捕らえて、爆弾を解除します。絶対です」
「……うん。あなたたちを信じてる」
 旬果はしっかりと頷く。
 進藤はスマホを取り出し、旬果に渡した。
「進藤? 青野旬果とバレエ団の様子はどうだ? 彼女をしっかり守ってくれ、頼んだぞ」
 切羽詰まったような彼の声。5か月ぶりだろうか。今でも彼は自分と、周囲の人々を守ろうとしていた。
 温かいものが身体をめぐる。
 旬果はブレスレットをしっかりと握りしめた。

 

「”ピエトロ”で密入国、予約した男がいるかもしれない」
 高梨の気づきに私服警察官が方々へ確認を取った。
「整形の可能性もあるが、年齢は40代。身長は190cm近く。引き締まった体つきで、目の色は青。カラコンをつけている可能性がある。イタリア人だ。なまりを探せ」
 空港からホテル、と方々を当たる。人海戦術だ。
「奴には入国を助ける協力者がいない。だから足もつかない。ああ、単独犯だ。おそらく一人のビジネスマン、もしくは観光客といったところだろう」
「ヒットしました!」
 捜査員が声をあげた。
「ノースティンホテルです。最上階の部屋にピエトロで予約。背は190cmほど、プラチナブロンドで40代のビジネスマン!」
「急げ」
 高梨の指示で急行する。
「それと、彼が調達したものを」
「ジャンク品店に訪れています」
「近辺のホームセンターでオイルを大量に」
 次々と報告がもたらされる。
 金属探知機が反応しないわけだ。
「なるほど……オイルを爆発させるには熱を加えるか、工夫がいるな」
 高梨がつぶやく中、ネイサンはスマホの着信に気づいた、相手は進藤である。
「進藤? 青野旬果とバレエ団の様子はどうだ? 彼女をしっかり守ってくれ、頼んだぞ……ああ、どうした?バレエ団員から消えた男がいる?……アントニオ。背の高いオレンジ色の髪のダンサー。わかった」
 進藤の報告を基に、ネイサンはノートパソコンを開いた。
 ロレンツォなどのダンサーはじめ、スタッフの顔とプロフィールが映し出される。
「アントニオ……彼か?……ん?」
 ネイサンの手が止まった。
 金髪の女性の顔写真。
 見たことがある、と思った。名前はソフィア。
(まさか……)
 と思ったが、胸がざわついた。
 パスポートは偽造か、あるいは本物をカネに困っている者から買えば良い。似た人物の顔を。
「これはカテリーナじゃないのか……」
 化粧をしているため一瞬では分かりにくいが、リヴィアの秘蔵っ子で、アウグストの最近までの愛人。
 賢く、背が高く、金髪。
 いつからか姿を消していたが、もし彼女がアウグストの手伝いを続けていたなら。
「バレエ団に潜入を……舞台の演出・設置担当……簡単にオイルを仕込める」
「何だって?」
 高梨が振り返る。
「バレエ団スタッフのソフィアという女を押さえましょう。彼女はアウグストの愛人のカテリーナかもしれない。カテリーナは精密機器の扱いをリヴィアから、武器、爆薬の知識をアウグストからたたき込まれていますから」
「本当か?奴は一人かと。それと、彼女がもしそうなら、舞台に揮発性の可燃物質を仕込むのは簡単だろうな」
「はい」
「それと、アウグストだ。彼を追わねば……」
「私が追います」
 ネイサンが決意を込めて言った。
「だが、君は彼に私情があるだろ?」
「ご心配には及びません。決して私情には走りません」
 高梨は一瞬だけ息を止め、深く息を吐きだす。
 目を閉じると頷いた。
「任せた」

 

 変わらず客足は続き、バレエのチケットを持っていた客たちが殺到し始めた。
 私服警察官達がすでに席は埋まった、チケットは払い戻しを、と説明するがなかなか進まない。
 そんな中、アントニオが隣の雑居ビルで見つかった。
 彼は脇からナイフで刺され、心臓まで貫かれていた。
 オレンジの髪、高い身長。肌の色は日焼けしたサーファー風の小麦色。
 特徴通りだ。
 制服の警察官が駆け付けたため、SNSで一気に広まる。
 ざわざわと騒がしくなり、噂はすぐに戎ガーデン内にも広まり始めた。
「ねえ、これパンフレットに載ってる人じゃない?」
「うわ、マジだ。ヤバいんじゃないの?」
「えー、テロ?」
「テロは政治でしょ、ただの外国人の喧嘩じゃないの?」
 憶測が飛び交い、波紋はすぐに大きくなる。
 戎ガーデンから出ていく姿も増え、誘導が間に合わない――
「客を逃がすなと言ったよな?」
 と、冷たい電子声がバンに響いた。
 ドオン、とやや大きな音が響き渡り、高梨は窓を見た。
 舞台照明の近くで火柱が上がり、すぐに収まる。
 自動販売機が吹き飛んだが、人は幸い巻き込んでいない。
 悲鳴が起き、パニックとなった人々が各方向に逃げ惑う。
「しまった。誘導しろ!」
「約束通りにするんだ。客を、決して、逃がさず、セーラを行え」
 たどたどしい日本語の電子音声が響く。高梨は舌打ちしてそれを聞いていた。

 

 事情を知らされたバレエ団の中には逃げ出そうとする者もいた。
 ロレンツォは指先を何度もからめてはほぐし、下唇をずっと噛んでいる様子を見せている。
 進藤は旬果達の前でついに事件のことを話したのだ。
「クラネ・ジェーロの噂は聞いたことがあったし、組織解体のニュースも見たよ。だから、もう安全なのかと」
 マネージャーがそう言うと、進藤は深く頷いたが説明を続ける。
「組織自体は、もうありません。ですが、カポは一人逃げていて……どこに潜伏していたかわからなかったんです」
「それがここで発見された……」
 重々しい空気が流れる中、ロレンツォがやっと口を開く。
「はっきり言ってそういう組織が別の芸能団体と関わりあるのは知ってるんだ。興行ってなったら、彼らの力と影響力はすごいから。だから多少の圧力には慣れてるんだよ」
 その声は緊張でか、かすれていた。
「でも、さっきの爆発……事故だと言っていたけど、本当は彼が?」
「すいません。すぐに発見できれば良かったのですが……今も捜索中です」
「どこにあるんだ?」
「……可能性は、セーラの舞台そのものです。ソフィアという女性がいましたよね?」
「彼女が仕込んだ?」
「かもしれない、と」
「アントニオもやられた……」
 ロレンツォはうなだれ、マネージャーがそれを支えるように肩を抱いた。
「セーラを行わなければすぐに爆発させると言ってたの。皆……」
 旬果が言うと、団員の目が鋭く彼女を捕らえた。
「だから出ろって言うの?冗談じゃない、日本にはそれほど思い入れもないし、そこで死ぬなんて嫌よ、あたしは降りる」
「そもそも、アウグストが狙っているのは君だろ?今日のセーラのプリマドンナを変えるなと言ってるんだから」
「そうだ、君が出れば問題ない。すまないが、ロレンツォを危険な目に遭わせられない。一人で踊ればいい」
 ロレンツォが顔をあげ、旬果を見た。
 涙が流れ、真っ赤だ。
「シュンカ……今夜のことは、僕が主催なんだよ。君たちはゲスト。僕が責任を」
 ロレンツォは唯一の気概を見せた。だがすぐに反対だと皆が言う。
「皆。爆発するって決まったわけじゃないんだから……それに僕は主演だ」
「ロレンツォ……でも、皆の言う通りよ。あなた達は逃げて。ロレンツォ、あなたが一番、危ないわ」
「だけど、シュンカ……」
 やがて警備員が現れ、バレエ団がひそかに護送されていく。
 ロレンツォは泣きじゃくっていたが、それ以外はほっとした顔をしていた。
 それを見送った進藤が振り向く。
「青野さん……今爆弾の種類を調べてますから。すぐに結果は出ます」
「うん。ねえ……」
「すいません。安東先輩は、帰国してからもずっと奴を追ってました。青野さんに連絡を取らなかったのは……」
「彼自身がアウグストの本当の狙いだから……」
「……そうです。青野さんを守る為には遠ざけた方が良い、そう考えて……」
 旬果は、ただゆっくり頷くことしか出来なかった。

 

 私服の女性警察官がそれを見つけたのは偶然だった。
 黒いパーカーを着た外国人女性が、楽屋近くの障碍者用トイレでバルブを捻っている姿を見たのだ。
 シュー、と音はやがて安定し、青いホースを流れていく。
「何をしてるの!?」
 鋭い声を彼女の背にぶつけ、逃げようとしたそのパーカーを掴んで身柄を確保する。
 輝くような金髪が現れた。
 顔を向かせると、彼女は嫣然と微笑みを見せる……まるで勝ち誇ったように。
「Ormai è troppo tardi(もう手遅れよ)」
「え?」
 女性警察官が戸惑いを見せた瞬間、スタンガンが腹部に当てられた。
 一瞬の隙に、女性はそのまま逃げてしまった。
「黒のパーカー、金髪、白人女性!言語からしてイタリア人。”ソフィア”と思われます!スタンガンを所持!」
 腹を押さえながら報告し、バルブに近づく。
「青いホースで何かを流しています!」

 

 女性警察官からの報告を受け、すぐに防爆スプレーの準備が整った。
 やはり揮発性可燃物質を流すつもりなのだろう、進藤は爆弾処理班と青いホースをたどり、舞台装置を発見した。
 色付きの煙を出し、地獄や天国を表現するつもりだったようだ。
 ここから爆破を行う予定だったのだろう。
「防爆スプレーを散布します」
 アウグストはどこからか監視しているのだ。目立った動きはまだ出来ず、皆私服のままだ。
「クッソ厄介じゃん。爆弾ほどわかりやすいシロモノじゃなかった」
 進藤が思わず愚痴をこぼすと、爆弾処理班班長がその肩を叩く。
「地味で地道が一番強いんだよ」
「……よっくわかりましたよ」
 発見され始めた工業用オイルを見つけ次第、吸収剤を用いて密かに処理開始だ。

 

 一方、ノースティンホテルにアウグストはいなかった。
 部屋には一枚のスケジュール表があり、戎ガーデン展望台にて待つ、という文言があった。
 これを発見した部隊は高梨に報告し、戎ガーデン展望台へ移動した。
 そんな中、ネイサンは一人バイクを走らせていた。
 イヤホンマイクが鳴り、着信を知らせる。
 高梨が「戎ガーデン展望台だ」と言ったが、ネイサンは首を横に振る。
 ロッカ・ディ・ルチェから見える景色を思い出す。アウグストが好むものは戎ガーデンのそれではない。
「いいえ。奴の性格上、全てを見下ろせる場所を選ぶはずです」
「全てを見下ろせる……」
「はい。ハイ・ツリーです」
「そこに向かっているのか?」
「はい。応援を頼みます」
「……わかった。ただし動かせるのは一部隊だけだ」
「はい」
「安東くん……君がアウグストに私情を持っていると分かっていたんだ」
 ふと高梨が口調を和らげた。ネイサンはそれを不思議に思いながらも、「ええ」と返した。
 彼のいう事は事実だ。恨み、怒り、同情、色んな思いがアウグストに対してある。
 彼を追えるのは自分だけ……そんなエゴすらあった。
「だから言わずにおこうと思っていた。進藤くんが言うには、爆弾を一つ見つけたと」
「それは隠すことでは……」
「落ち着いて聞くんだ。それは、青野旬果さんの首につけられた。小型だが、爆発すれば刃物が飛び出ると」
 それを聞いた瞬間、世界の音が止まった気がした。
 高梨が謝っているが、何に対してかは聞こえなかった。
 信号につかまり、ようやく息することを思い出す。高梨の声が聞こえて来た。
「今解除方法を探っている。それに、小型であることは間違いない、必ず彼女は助けられる」
「……全て撹乱かもしれません。奴ならもっと、手際よくやるはずでした」
「……ああ。その場合は?」
「彼女だけを狙っている」
「君にダメージを与えるためか」
「はい」
「その場合、もし爆弾が解除されても、次がある……」
「おそらく、そうです。奴を捕まえるまでは、終わらないのでしょう」
「……彼にとって爆破でどれだけの犠牲が出ても、出なくても、どうでもいいってことか」
「ええ。自分の仲間すら餌として利用するような男です」
「すまない」
「え?」
「君をもっと信頼すべきだった。アウグストに私情があると思って……冷静ではないのでは、と」
「それは確かです。そのせいで私も判断を誤りました。旬果を危険な目に遭わせたのは、私の甘さのせいです」
 話していると、心と頭がしっくりと落ち着いてくる感覚があった。
 視界が明瞭になり、そびえたつ白く美しい塔が目の前になった。

 

 受付に警察手帳を提示し、すぐに案内される。
 おそらく展望台だ。
 一般客を早く避難させるよう指示し、エレベーターに一人乗る。
 広いエレベーター内。
 スピードをあげてぐんぐん登り詰めると共に、ネイサンは確信を得始めた。
(ここに奴がいる)
 動物的直観ともいうべきものが、彼の存在をかぎ取っていた。
 アナウンスが流れ始めた。
「本日は、お越しくださりまことにありがとうございます。突然ですが、本日、営業時間が変更となりました。皆様には大変ご迷惑をおかけいたしまして……」
 展望スペースについた。ポーン、と音が鳴って、ドアが開かれる。
 丸みを帯びた壁、青く光る足元の照明、眼下に広がる人々の営みの光。
 ネイサンは、そこにきらきらと輝くものを見つけた。
 旬果に贈ったあのネックレスだった。

 

 緊張感を漂わせる険しい顔つきの観客たち。私服警察官だ。
 一般客もスマホ片手に遠巻きに見ているが、警備員がもっと下がるよう言っている。
「処理はどうだ? ある程度進んでいる? よし、一つ落ち着いたかな。……青野さん」
 無線で話していた進藤が最後で振り向いた。
「ある程度爆発物を取り除くことに成功しています。セーラが終わるころには、もっと安全を確保出来ているはず」
 時刻は夜7:40分。
 ロレンツォ達がいなくなった今、旬果が踊るのは1時間ほどといったところだ。
 彼らがいない分1時間も短くなってしまったが、旬果はスクリーンでロレンツォの映像を使いつつアドリブを加えて踊ることに決めた。
 元から一人で練習もしていたのだ。それほど問題ない。
 ネイサンに贈ったブレスレットを握りしめ、ステージにあがった。
 何も知らない一般客から拍手が巻き起こる。
 ロレンツォ達がいない理由が説明され、旬果は深く体を折って息を整えると、音楽が鳴るのを待った――

 

 ベアトリーチェは若くして死んでしまう。
 主人公ダンテにとって、初恋であり、永遠の理想の乙女。
 ダンテが森と地獄に迷いこむその時、ベアトリーチェは彼の無事を願うのだ。
 彼女がダンテに与えたのは無償の愛である。
 それはただの理想かもしれない、もしそうだとしても、ベアトリーチェはダンテから無償の愛を与えられていたと言えよう。
 ダンテ自らの下心であれば、彼女の蘇りを描いても良かったのにそうしなかった。
 ダンテは彼女の天国行きを願ったのだから、それで証明は充分だ。
 苦悶からの脱却と、ダンテを置いていくことへの罪悪感。
 板挟みになったベアトリーチェは、ダンテの願いで救われる。
 ベアトリーチェは天国へ旅立つことを決めた。
 視線は上へ、指先はその先へ。
 旬果は第一幕をベアトリーチェの物語として演じた。

 

 ネイサンはネックレスを手に取る。
 アナウンスに従った一般客が移動を始めていた。
 人の流れに逆らうように歩けば、人より頭一つ分背が高い男と目が合う。
 アウグスト、彼だ。
 オレンジの髪――ウィッグ――を取り去ると、彼は手で顔をべっとりと撫でてファンデーションを落とす。
 青白いほどの白い肌が指の痕を残しながら現れた。
「……アウグスト」
「ようやく来たな、ネイサン。お前もしぶといな」
「必死なんでね」
「フフ」
 二人の間に人がいなくなり、アウグストは長いサバイバルナイフを取り出した。
「ネイサン、お前は私の全てを奪った。それは確かに腹立たしい。だがな、一番許せないのは、私を裏切ったことだ」
 ネイサンは拳銃を構えた。だがアウグストはひるまない。
「なあ、ダンテも説いているだろう?裏切りは最も罪が重い。そしてコキュートスの氷に永遠に封じ込められるものだと。そしてその通りになったんだよ」
「ピエトロのことか?」
「そう、その通り。よく知ってるじゃないか。彼は私から全てを奪い、裏切った。何が聖人だ?僧侶だ?やったことは盗みと裏切りだった。だからある日、彼を凍った湖に突き落としたんだよ」
「なら、なぜその僧侶の名を騙ったんだ」
「他に思いつかなくてね。それと、お前が教会に来たから思い出したんだよ。そういえば、そんな男がいたと」
「彼はお前から何を奪ったんだ?」
「私の全てだ。なあ、ネイサン、お前ならわかるだろう。男にとって最も大切なものだ。それを奪われれば、お前だって怒り狂うさ」
 ネイサンは何を返さず、彼を静かに見据えた。
 やはり、女性だ。アウグストが告発した教会のスキャンダル。
 だが、ならばなぜアウグストはその彼女と一緒にいない?
「ネイサン。撃てよ、撃たないと、私を止められないぞ」
 アウグストはゆっくりと腕を広げて近づき、胸で銃口を受け止めた。
 ゴリッとした感触があった。防弾チョッキをつけているようだ。
「撃たずにいるなら、お前の大切なものを奪ってやる。そうすれば、私の気持ちが分かるだろう」
 アウグストは顔を寄せた。
「あのバレリーナをお前の前で犯し、細い手足を折り、美しい顔を氷漬けにしてやる」
 ぶるっ、と銃口がブレた。
 間近で目が合えば、アウグストの薄い青の目に感情が見えた。
「ははは……動揺したな。なあ、ネイサン。分かるだろう?もう一つ選択肢を与えてやってもいい。私と一緒に来い。そうすれば、あのバレリーナをお前にやろう。多少カネを作りさえすれば、後は二人でパラディーソに入り浸ればいい」
 小さな声でイヤホンが状況を知らせる。
「爆発物のほとんどを取り除いた。小規模の可能性はあるが、被害はおさえられる。それと、部隊があと数分でそっちに着く」
 ネイサンは内心で胸を撫でおろした。呼吸が楽になり、アウグストと向き合う。
 ネイサンはアウグストの胸を押して距離を取った。
「お断りだ」
「そうか?」
 アウグストはスイッチを取り出し、ネイサンに見せびらかす。
 かなり小さなものだ。
「あのアーモンド形の目が気に入ったよ。なかなか楽しめそうな女だ。今すぐ殺すには惜しい、連れ去って役に立ってもらおう」
 ネイサンは銃口を彼の額に向けた。
「アウグスト……哀れな男だ。そうでしか自分自身を誇示できないか?」
「何?」
「そんなことに一体何の意味がある? 例え彼女を連れて行っても、お前のものには決してならない」
「ネイサン、人の欲望を甘く見過ぎだ」
「かもしれない。本当に欲しいものが手に入らないから、何でもかんでも欲しがるんだろう。まるで駄々をこねる子供だ」
 アウグストが不愉快だ、といわんばかりに眉間に深い皺をよせる。
「彼女の命が惜しくないようだ」
「なぜあの教会にカネを?そこに何がある?お前はなぜそこに囚われてるんだ?」
「うるさい!」
 アウグストはナイフをふるった。
 切っ先がネイサンのシャツをかすめ、金色のチェーンを切る。
 ロケットペンダントが床に転がり、アウグストの足元に落ちた。
 それを見たアウグストが動きを止める。
「エミリア……!」
 レオナルドが言った名前。
 そのエミリアの少女時代の写真を見たアウグストの目はいつ、どの時とも違うもの。
 瞳孔は開き、戸惑いに揺れている。
「アウグスト……?」
 ロケットペンダントにアウグストの手が伸びる。ネイサンはそれを撃った。
「!」
「アウグスト、エミリアはピエトロに……」
「うるさい、黙れ!」
「お前は彼女を救ったんじゃないのか?なぜ教会にトドメを刺した!?」
「あの女は裏切り者だ!約束を違え、ピエトロを選んだ」
 これほど取り乱すアウグストを初めて見た。
 青い目は血走り、泣いているように見える。
「彼女は被害者なんだろう?」
「被害者?まさか、その正反対だ!私を裏切り、見捨て、ピエトロと逃げた。私を睨んだあの目!まるで汚物でも見るかのような目だった」
「なら、なぜこの写真を……」
 祀るかのように飾っていた?
「お前に何がわかる!」
「カポ!」
 女の声が響き渡り、ネイサンが後ろを振り向くと銃を構えた金髪の――カテリーナが立っていた。
 銃口はまっすぐにネイサンに向けられていた。
「カポ、戎ガーデン爆破は失敗した。あと残ってるのはシュンカのものだけよ。逃げないと!」
「黙ってろ、小娘!ここで逃げると思うか?私から全て奪ったものは許さない。ピエトロ……お前が全てをぶち壊したんだ。私のエミリアをそそのかした、悪魔の化身め!」
 アウグストはネイサンを睨みつけた。錯乱している。
「お前のものを全て奪ってやる……!あの女は私のものだった。どいつもこいつも、私のものを奪いやがって……!」
 アウグストはスイッチを取り出し、血まみれの親指をかける。
 そしてカテリーナがネイサンに向かって引金を引いた。
 全てがスローモーションに見える中、ネイサンは銃を構え、迷わず引金を引く――

 銃声が響き渡った。

「エミリアが見つかったよ」
 モニターの向こうでレオナルドが言った。
 進藤はそのまま同時通訳をし、高梨に説明している。
「ピエトロの凍死体が見つかった後、彼女はピエトロの故郷で修道女になったんだ。そこで独身を貫いてた」
「生きてたのか?」
 高梨が訊き、レオナルドは頷く。
「ああ。それでようやくアウグストのことが分かった。彼女は長く自分を責めてたよ。アウグストがああなっちまったこと、自分のせいじゃないかって」
「何があったんだ?」
「ちょっと長くなるが……」

 あの教会で育つ孤児の中で、アウグストとエミリアは年が近いこともあったが、何より髪の色、肌の色、目の色が似ていたこともあり、本当のきょうだいのように仲が良かった。
 いつも一緒にいた二人は、思春期を迎えるころに約束をしたそうだ。
「いつかここを、一緒に出よう。ずっと一緒にいよう」
 二人は里子に出されることもなく育ち、いつしかエミリアは教会の手伝いをし始め、18歳になる。
 教会の僧侶としてやってきたのが、ピエトロという若い青年だった。
 彼は優しく、どこか頼りない雰囲気。
 エミリアは彼のサポートをするうちに好意を寄せて行った。
 二人は恋人になった。
 アウグストは彼女に怒った、約束と違う、と。
 口論の末アウグストは車に乗り走って行き、そこで歩行者と接触事故を起こす。
 信号が赤だったにも関わらず、歩行者は急に走ってきたのだ。
 しかしその怪我は重症で、頭と首に損傷を追い下半身不随。
 教会はアウグストに悔い改めるように言った。
 当時のアウグストの目が忘れられない、とエミリアは話したそうだ。
 その後のことは、レオナルドが以前話した通り。アウグストはミラノへ告発しに行き、帰ってこなかった。
 そして2年が過ぎた真冬、ピエトロが死んだ。
 凍てついた湖で、凍死していたのだ。

「そうか……まあ、性格によると思うがね、アウグストが結局エゴイストだったというだけだろう」
 高梨は冷静に言い放った。進藤が返す。
「エミリアさんに対する独占欲……支配欲ですかね?」
「そんなところかな。愛じゃないな、それは」
 ちら、と視線を移せば、一人踊る旬果の姿があった。
 もう物語はクライマックス。
 天国からダンテを見守っていたベアトリーチェは、煉獄の山を登ってきた彼を優しく迎え入れる。
 光あふれるスクリーンに写る、ダンテの手。
 旬果はそっと手を伸ばし、その手に触れた。
 鐘が鳴り響き、席から離れていた一般客から拍手が巻き起こる。
 終わった――その時、指先の向こうに、彼を見つけた。
 指先は震え、視界は潤んで見えなくなってしまう。
 彼の姿が見たいのに、とまぶたを下ろし、涙をこぼせば、彼の体温を近くに感じる。
 これ以上ない安心感に膝は力をなくし、その場に崩れ落ちた。
 頬が手のひらに包まれ、顔をあげる。
 アンバーの目が太陽のように輝いていた。
「もう大丈夫だ」
 記憶の通り、彼の声は低くにじむような響きで、体に熱がともるような深いものがあった。
 首の後ろに手が回され、カチャッと小さな音を立ててチョーカーが外れていく。
 脅威からようやく解放され、ネイサンに抱きしめられる。
 旬果はようやく泣きじゃくった。

 

 エレベーター内で、アウグストは背中から刺されたという。
 致命傷には至らなかったものの、それにより彼は身動きが取れず、出入口で待っていた警察官達に逮捕された。
「あいつがリヴィアを殺したからよ。私から彼女を奪った罰、裏切ったなんてとんでもない。私にはリヴィアが全てだっただけ。だから仇討ちのチャンスを待ってたの」
 アウグストを刺した女――カテリーナはそう供述したという。
 スカイツリーでネイサンの弾丸はアウグストの手を貫いた。
 スイッチがこぼれ、彼はそれを取ったという。
「意外だった。あの男、アウグストを憎んでると思ったのに。スイッチのために捨てたみたい。けっこうバカね、3年間が水の泡。アウグストを自ら逮捕出来れば英雄だったんでしょ」
 アウグストは今だ何も話さない。
 というより、生気を失っている様子で、話せるようではないとのことだ。
 彼はロケットペンダントを撫でながら、ただぽつぽつと、
「ずっと一緒だ、エミリア……」
 とつぶやき続けているという。
 エミリアの写真は銃弾で撃ち抜かれていた。
 カテリーナがネイサンを狙った銃弾が当たったらしい。
 彼女への消えない執着心。理想の乙女。それが汚され、ついには写真がつぶれた。
 アウグストにとってエミリアとの思い出は最も幸福で、不幸へ堕ちたきっかけだったのかもしれない。
 報告書がまとめられ、二人はイタリアへ強制送還される運びである。

 

 ネイサンはカテリーナの弾を一発受けたが、かすった程度で済んだ。
 こればかりはラッキーだった。
 しかし、ネイサンは銃弾使用のために山ほどある報告書を作成しなければならない。
 ネイサンは怪我から復帰直後に忙殺される思いだった。
 戎ガーデン付近で起きた「外国人同士による事件」は、新聞の隅に軽く書かれている程度。
 あまり大っぴらに語れるものでもないが、それが却ってSNSの話題となっている節があった。
 スマホを直す手首にブレスレットが揺れる。
【謎の外人が日本でテロ?】
【戎ガーデンで起きた事故のヤバイ裏事実!外国人の”事件”の秘密】
【バレエチケットを巡って裏取引?そこにある真実!】
 そんなショッキングな見出しが平気で飛び交い、見る者を無責任に煽っている。
「全く……」
 考えようによっては、机に向かい続けるのは平和なことでもある。
 官舎には監視カメラもなく、盗聴器もない。
 制限はあっても自由だ。
 それに、彼女がいる。
 官舎住まいを余儀なくされているネイサンは、しばらくならホテルを使って良いとお許しが出た。
 ここでなら遠慮なくプライベートを満喫できる。
 進藤がこそこそと話しかけてきた。
「安東先輩、今度飲みに行くんですけど」
「お前の言う”飲み”は合コンだろ?」
「そうっす。だから口説きの極意を教えて欲しくて」
「はあ?」
「だって青野さんとメルアド交換したの、たった数十分のやり取りで決まったらしいじゃないっすか」
「あのな……いや待て、誰に聞いたんだ?その話」
「報告書にあったの見えたんです。青野さんと接触したのはいつなんどき~って。ほんっとに偶然だったんでしょ?だったらナンパですよね?」
「ナンパ講習受けただろ?それをやればいい」
「えー……覚えてないんすよぉ」
 ネイサンは進藤を見ると、ため息をついて首を横にふった。
 進藤はここぞという時に活躍できるが、普段はまるで、ただのお調子者である。
 なるほど。
「なんすか、その顔。まるで俺を哀れむような!」
「わかったんだ。お前、本気になったら実力を発揮できる。その時が来るまで出会いは待て」
「え、なんか予言者みたいっすね」
「それしかないだろ。良いと思えない女性を口説いても意味ないだろう、向こうの時間も限られてるんだから」
「……それもそうか……ところで合コン、高梨さん誘おうかな。無理かな……」
 アウグストに手錠をかけた若い警察官が表彰を受けるらしい。
 ネイサンは最後に田中の洗礼を浴びた気分だったが、何も気にならなかった。
 今日も約束通りにホテルに向かう。
 ラウンジで待っているという彼女は、こちらを探して辺りをきょろきょろ見渡していた。
 その姿がやけに可愛い。首元にネックレスが光り、反射光を追った彼女がようやくネイサンを見つけた。
「ネイト……!」
 彼女の嬉しそうな声が、名を呼ぶ。
 これで充分じゃないか。紙も名誉も、ただ過ぎ去れば風化していくもの。
 彼女の笑顔の方が、ネイサンをずっと喜ばせてくれる。
【わたしは今、愛の何たるかを知る】
 手が触れ合うと、しっくりと体温が融け合うようだった。

終わり。

 

【お知らせ】

これまで物語をお楽しみ下さり、心より感謝申し上げます!
お待たせしました!ついに完結を迎えたこの物語の特別企画として、「投げ銭お礼特典」の内容を発表いたします。この特典は期間限定ですので、お見逃しなく!
詳しくは、こちらのページをご覧ください。→特設ページ。ついに!投げ銭のお礼特典の内容をご紹介!
(パスワード取得方法もこちらからです)

あなたのサポートに感謝の気持ちを込めて、特別な内容をご用意しています。
お楽しみに!

パスワード取得済みの方はこちらからでも入れます→ありがとう!特別コンテンツを楽しんでいってくださいね。

 

最後のつぶやき。
外伝小説を朗読化するのも楽しかったので、本編もいずれ朗読化して、ユーチューブにアップしていこうかなと考えています。その時はまた、どうぞどうぞ、よろしくお願いします。

 

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  • この記事を書いた人

深月カメリア

ライター:深月カメリア 女性特有の病気をきっかけに、性を大切にすることに目覚めたXジェンダー。以来、性に関して大切な精神的、肉体的なアプローチを食事、運動、メンタルケアを通じて発信しています。 Writer:Camellia Mizuki I am an X-gender woman who was awakened to the importance of sexuality by a woman's specific illness. Since then, I've been sharing an essential mind-body approach to sexuality through diet, exercise, and mental health care.”

-コキュートス, 小説
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